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加藤明 ペルー女子バレーの育ての親がアンビリバボーで紹介される。 [感動する話]

SHIGEZOじゃ。


今回は「奇跡体験!アンビリバボー」から

感動する話をお届けしますじゃ。

このお話は加藤明という日本人と

ペルーの女子バレーボール代表チームが

バレーボールで世界を目指す

奇跡の成長の物語じゃ。

「ペルーの英雄」とまで言われた

加藤明とは一体どんな人物で

どんなストーリーなのか紹介するぞい!


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加藤明のプロフィール



加藤明(かとうあきら)

1933年神奈川県小田原市出身。

幼き頃からバレーボールに夢中になり

慶應義塾大学でバレーボール界に

名をとどろかせる。



1955年八幡製鉄に入社し5年間かけ

バレー八幡製鉄チームの主将となり

同年世界選手権に出場する。

翌年1961年引退し、

母校である慶應の監督に就任する。



加藤明は指導者としても特化しており

当時2部リーグで低迷しておった慶應バレー部を

たったの3年で全日本大学選手権に

優勝するまで導いた男じゃ。



加藤明、ペルーの女子バレー監督に就任



1965年ペルーの女子バレーボールは

世界的にみると実力はかなり下の方じゃった。

オリンピックには出場したこともないほど。



反対に当時の日本女子バレーは

「東洋の魔女」と恐れられるほど強く

日本女子バレーの最全盛期とも言われておった。



鳴かず飛ばずのペルー女子バレーを

なんとしても強化したかったペルー政府は

なんと、加藤明に指導してほしいと

猛烈なラブコールを送ったのじゃった。

それを良く思った加藤明は

ペルーの女子バレー監督になるべく

勤めていた八幡製鉄を休職し

2年間だけという期限付きで

ペルーに渡り、指導を開始するのじゃった。



加藤明、ペルーで非難を浴びる



加藤明の監督としての指導の持ち味は

「スパルタ」にあった。

まさに「アタック№1」の猪野熊大吾コーチばりに

厳しく指導をしておったのじゃ。

それくらいしなければ世界は狙えないと

判断したのじゃろう。



しかし、これがペルーでは逆効果で

あまりの厳しさに逃げ出す選手が

続出するのじゃった。



こうして、マスコミには「非人道的」などと

取り上げられ、そうとう叩かれたそうじゃ。



加藤明、「すきやき」で心を掴む



批判され続けたが、諦めない加藤明が

次にとった行動はペルーを歩き回って

バレーの原石を探し回ることじゃった。

さらに日本の食文化である「すきやき」を

選手たちにご馳走し海外でなぜか「スキヤキ」

と呼ばれておる「上を向いて歩こう」を

弾き語るなどして徐々に選手たちと

コミュニケーションを取り

距離を縮めていったそうじゃ。



こうして全体的に実力が向上していった

ペルーの選手たちは世界選手権の

切符を勝ち取るまでに成長していたとのことじゃ。



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そして、約束の2年が訪れる



1967年東京で行われた世界女子バレー選手権

を最後に加藤明はペルーでの任期を終え

会社側に帰国を迫られる。

選手権でのペルーの成績は最下位

という結果に終わってしまい

納得のいかなかった

加藤明は任期の延長を訴えた。

加藤との別れを惜しむ選手たちに

心を打たれた八幡製鉄は

もう1年だけ加藤に休職期間を与えたのじゃった。



3年目の飛躍的な成長



加藤明と選手たちは限られた

1年という時間をほとんど練習に費やし

メキメキとバレーの腕前を上げていく。



そして、1968年メキシコオリンピックにて

見事ペルーは4位入賞を果たす。

このあたりからペルーの国民から

「野蛮な監督」から一転し「ペルーの英雄」

と呼ばれるようになっていったのじゃ。



その後、加藤明は会社を辞めて

ペルー女子バレー代表監督として

ペルーに永住する決意を固めたそうじゃ。



加藤明、病に伏せる



ついにペルーの監督としてやっていくと決意し

周囲の期待も高まり、世界の頂点を

目指そうとしていた矢先のこと

加藤は急性肝炎で倒れてしまう。



監督も辞任せざるを得ないほど病状は悪く

十数年間の長きにわたり闘病生活を送っていたところ

ついにペルーで世界選手権が行われることになった。



加藤明、享年49歳。



1982年、ようやくペルーで世界選手権が

開催されるという事で喜んだ加藤明じゃが

開催目前にして、49年の人生に幕を下ろす事となる。



翌日の新聞では「ペルーが泣いている」という

見出しで、「ペルーの英雄」の死を悔やむ記事が報じられ

国民により教会の鐘や車のクラクションが

一日中鳴り響いたという。

さらにさらに!加藤明の葬儀には

当時の大統領が参加し

教え子の選手たちは「上を向いて歩こう」を

合唱し、加藤との永遠の別れを告げたのじゃった。



加藤明とのお別れから半年後の本番。ついに・・・



自国で初めて開催された世界選手権で

ペルーは長年の目標でもあった日本を

打ち破ることを実現させた。

その瞬間、観客席では「アキラ・カトー」の

コールと共に盛大な紙吹雪が舞っていたそうじゃ。



その後のペルーは準決勝でアメリカに勝利!

決勝では惜しくも中国に敗れましたが

初めての世界選手権銀メダルを獲得したのじゃった。



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